■波乱万丈―長谷川等伯の人生

重要文化財 三十番神図【さんじゅうばんじんず】/重要文化財 日堯上人像【にちぎょうしょうにんぞう】
◆能登の絵仏師、京都へ

 等伯は、戦国大名畠山はたけやま家家臣奥村家の子として生まれましたが、染色業を営む長谷川家に養子に入りました。養祖父、養父に絵の手ほどきを受けた等伯は、信春のぶはると名乗り、日蓮宗寺院に関わる仏画を多く描きました。戦乱の波のうねりは能登にもおよび、画業を続けることが困難となった等伯は、父母を亡くしたことを契機に、30代という決して若くはない年齢で、京都に新たな活躍の場を夢見て上洛しました。

◆狩野一門の牙城へ―金毛閣天井画

 40代の等伯の京都での活動がどんなものであったか、ほとんどわかっていません。「等伯」の名が最初にあらわれるのは、京都五山の大徳寺です。大徳寺では室町時代以来、狩野一族の多くの絵師が障壁画を制作しており、まさに狩野一門の牙城でした。
  天正17年(1589)、等伯51歳のとき、豊臣秀吉の茶頭・千利休は、大徳寺三門の増築部分を寄進します。その金毛閣の天井と柱に等伯は筆をふるいました。京都画壇に高らかに等伯の名を知らしめる第一歩でした。

◆永徳との対決―御所の障壁画

 狩野永徳は、名門狩野家の長子に生まれ、幼くしてその才能を開花させました。等伯より4歳年少の画壇の覇者は、織田信長、豊臣秀吉に仕え、さらに宮中の貴族にも密接にかかわって、さまざまな殿舎の障壁画に筆をふるっていました。一方の等伯は、30代で遅咲きの上洛を果たし、大寺院の住職、町衆や武将など京都の有力者たちと交わり、画業の修養を積んでいました。
  この二人が直接対決したのは、天正18年(1590)、御所造営に際して対屋たいのやの障壁画制作を巡ってのことでした。一度は等伯の運動が功を奏して襖絵揮毫きごうの受注を得ましたが、永徳とその子、光信が宮中に申し出たことで阻止されてしまいます。等伯一派の勢力が狩野一門に伯仲しつつあった証となる事件とも言えます。
  この後、等伯は秀吉の子鶴松の菩提寺で、京都第一の寺といわれた祥雲寺しょううんじ(現智積院)の障壁画制作という一大事業を獲得しました。

国宝 楓図壁貼付・松に秋草図屏風
◆一族への祈り ― 大涅槃図
重要文化財 仏涅槃図【ぶつねはんず】

 日通上人と等伯との関係は、あつ く永きに渡るものでした。等伯は、よき理解者であった日通上人に強く信頼をよせ、慶長4年(1599)に大涅槃図(仏涅槃図)を寄進します。さらに慶長10年には、本法寺の客殿仁王門の建立施主となるほど、本法寺には多くのものを寄進しました。等伯は本法寺の大檀越だいだんおつとなり、単なる絵師ではなく、町衆として京都における有力者となったのです。
 大涅槃図の裏面には日蓮聖人以下の祖師たちの名、本法寺開山の日親上人以下の歴代住職、等伯の祖父母や養父母、そして将来の長谷川一門を担うべく期待をよせていた長男久蔵(26歳の若さで先立った)たちの供養銘が記されています。等伯の篤い信仰と一族への祈りが込められた作品と言えます。

◆新天地・江戸への旅

 豊臣の時代が去り、世は徳川家康のものとなろうとしていました。等伯は新たなパトロンを獲得するため、高齢をおして次男の宗宅そうたく を伴い、江戸へ下向します。後の長谷川一門の命運を賭けたものでしたが、等伯は途中で病をえて、江戸到着直後に72歳で亡くなりました。等伯の没した翌年、宗宅も亡くなり、画壇のなかでの長谷川一門の命脈は尽きてしまいました。

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