

等伯は、戦国大名

40代の等伯の京都での活動がどんなものであったか、ほとんどわかっていません。「等伯」の名が最初にあらわれるのは、京都五山の大徳寺です。大徳寺では室町時代以来、狩野一族の多くの絵師が障壁画を制作しており、まさに狩野一門の牙城でした。
天正17年(1589)、等伯51歳のとき、豊臣秀吉の茶頭・千利休は、大徳寺三門の増築部分を寄進します。その金毛閣の天井と柱に等伯は筆をふるいました。京都画壇に高らかに等伯の名を知らしめる第一歩でした。

狩野永徳は、名門狩野家の長子に生まれ、幼くしてその才能を開花させました。等伯より4歳年少の画壇の覇者は、織田信長、豊臣秀吉に仕え、さらに宮中の貴族にも密接にかかわって、さまざまな殿舎の障壁画に筆をふるっていました。一方の等伯は、30代で遅咲きの上洛を果たし、大寺院の住職、町衆や武将など京都の有力者たちと交わり、画業の修養を積んでいました。
この二人が直接対決したのは、天正18年(1590)、御所造営に際して
この後、等伯は秀吉の子鶴松の菩提寺で、京都第一の寺といわれた



日通上人と等伯との関係は、
大涅槃図の裏面には日蓮聖人以下の祖師たちの名、本法寺開山の日親上人以下の歴代住職、等伯の祖父母や養父母、そして将来の長谷川一門を担うべく期待をよせていた長男久蔵(26歳の若さで先立った)たちの供養銘が記されています。等伯の篤い信仰と一族への祈りが込められた作品と言えます。

豊臣の時代が去り、世は徳川家康のものとなろうとしていました。等伯は新たなパトロンを獲得するため、高齢をおして次男の